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国家の品格

 欝陶しい毎日が続いています。先が見通せない苛立ちや不安感は募るばかりです。日本ばかりか世界中の人々もそうした毎日を送っているはずです。

過去の幾たびかの戦争もこれほど多くの国々に影響を与えることはありませんでした。人々を死の恐怖に陥れるという点では同じかもしれませんが、戦争とは違って、目に見えない敵と戦うことの大変さを思い知らされます。

 人間の歴史は、コレラやペストなど得体のしれない病原菌との戦いでした。しかし、多くの犠牲者を出しながらもそれらに対抗する手段を見出し、克服してきました。今回も多少の時間はかかるかも知れませんが、この病気を克服できるはずです。そのためには、国として、国民としての行動がその中心となるはずです。

しかし、こうした騒動の中、自分も含めてですが、人間の自己中心的な行動の愚かさを認識せずにはいられません。その行動のすべてが個人の問題というふうに割り切ることはできません。そうした人々を育て上げたのは国の責任ととらえた方が良いかも知れません。

 おかげでという言い方は、厳しい状況の中にもかかわらず仕事をする人に対しては甚だ無礼な言い方かも知れませんが、隠居同様な生活を送る自分にとっては、今まで以上に家の中で過ごす時間が多くなり、持て余すぐらいです。

図書館も閉まってしまい、本の借り出しもままならない状況の中、家の書棚を弄っていたら、かなり前にベストセラーとなった藤原正彦さんの「国家の品格」が出てきました。何年か前に読んだはずですが、記憶があまり定かではありませんでしたから、二日ほどかけて読み直してみました。

 今まで何度か述べたとは思いますが、最近は、戦後の教育のマイナス面をしみじみと考えることが多くなりました。

もちろん、戦後の教育の素晴らしさは、山程あります。ですから、戦後教育者の端くれとして、戦後教育を全否定するつもりはありません。目立ってきたマイナス面については、その理想とすべき方向性がどこかでズレてしまった結果なのではないでしょうか。

 話を戻しますが、「国家の品格」は、決して教育論ではありません。国家のあるべき方向性を述べたもの言えるでしょう。しかし、現在の日本が向かおうとする教育に対する警鐘をも述べています。

(以下「国家の品格」より引用)

 『私がアメリカで教えていた当時、アメリカの大学生たちはろくな英語も書けませんでした。あまりにも英語がひどいので、数学はそっちのけで英語のチェックをしていたぐらいです。purofessorの「f」を二つダブらせるといった単純なスペルミスならまだいい方で、主語が三人称単数で現在形なのに動詞に「s」をつけなかったり、そもそも主語がなかったりと、とにかくめちゃくちゃでした。その後、「ポテト」の綴りを間違えて笑われた副大統領が出ましたが、私は驚きませんでした。懐かしく思いました。

 なぜそんなに英語が出来ないのか学生に尋ねてみると、「英語の時間にタイプを習っていた」と言いました。なぜ英語、つまり彼らにとっての国語の時間にタイプを教えていたのでしょうか。当局の言い分はきっとこうです。「アメリカの国民は、高校なり大学なりを卒業して社会に出たら、必ずタイプを打つ。したがって、そのタイプを英語の時間に教えることは有用である」。

 かくしてアメリカの多くの高校では、国語の単位に代えてタイプの単位を取ってもよいことになりました。その結果、思惑通りにタイプは打てるようになりましたが、打つべき英語の方が崩壊してしまいました。

 1970年代の後半になると、海軍の新兵さんの二五%が武器の取扱書を読めなくなってしまいました。さすがにアメリカ政府もあせって、「これではソ連に負けてしまう」と危機感を持ち、一九八三年に「A  Nation at Risk」という本を出して、もっと基礎・基本の教育をきっちりやろうという流れに変わりました。この本は「危機に立つ国家」というタイトルで邦訳も出ています。

 アメリカ人のすべてが社会に出たらタイプを打つ。だから、タイプは出来なければいけない。ならば学校で教え、みなタイプを打てるようにしよう。これは正しい論理です。正しい論理を追求していって、惨憺たる結果を招いたわけです。』

 国際化に「英語」は必要。だから小学校に「英語」を導入する。決して論理的に間違いとは断言できませんが、それでなくても、国語力の低下があやぶまれている日本の現状を考えると、同様な事態に陥ることが無いとは言い切れないでしょう。