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自由であること

 今年は、長い間携わった仕事からの解放元年になりました。

振り返ると、よくもまあこんなに長い間、飽きもせずに続いたものだと、自分自身ただただ感心するばかりです。

それは、仕事についてはもちろんですが、バドミントンとの関わりにおいても同様です。

仕事は人間としての生活を営む上では必要なことですから、「はい、さよなら」と簡単に別れを告げる訳にはいきませんが、それでも人によっては、嫌々ながらも続けている場合もあるかもしれません。

自分の場合は、そんなことはありませんでしたから、50年近く続けた仕事についても、バドミントンについても、大げさかもしれませんが、一瞬の夢のようです。

 仕事を離れるということに対して、他人は、「自由な時間が増えることは素晴らしいこと」と言うかもしれません。

しかし、この半年の生活を振り返り、しばしば「自由」ってどういうこと?と、「沈思黙考」することもあるのですが、なかなかその解答の糸口を見出せない状態です。

簡単に口にすることができる「自由」という言葉ですが、その意味合いは、そう簡単ではなさそうです。

辞書には、「自分の意のままに振る舞うことができること。」「勝手気ままなこと。わがまま」「哲学で、消極的には他から強制・拘束・妨害を受けないことをいう。」「法律の範囲内で許容される随意の行為」などなど。

わかったようでわからない、そんな言葉なんですね。浅いようで、深いといったところでしょうか。

 最近の連絡手段の大半は、電話以上にメールでのやりとりが多くなりました。電話は、見えない相手に対するある程度の配慮が必要ですし、郵便では時間がかかるという問題がありますが、メールは相手の状況をいろいろ配慮しなくてもいいということと、伝達の素早さもその理由なのでしょう。また、先ほどの意味から言えば「自分の意のままに振る舞うことができる」という自由さも、その大きな理由なのでしょう。

そうした時代ではあっても、郵便受けには毎日のように多くの郵便物が投函されています。その大半は、請求書やいろいろな催しの案内や宣伝などですが、勝手気ままに投函された物もたくさんあります。もちろん、他人の家の郵便受けであっても、投函することは、法に触れるわけでもありませんから、まさしく「自由」にというわけなのでしょう。

 連絡文書について言えば、ここ数年目立って多くなったのが、大学などからの寄付依頼の文書です。豪華な学校案内や現状報告などの文書と一緒に送られてきます。自分は私学出身で、まして、自分は学部を卒業後、他の大学にも進学しましたから、特にそう感じるのかもしれません。公立高校退職後、私学に移って知った事ですが、私学に対する国からの補助金は、結構なものがあります。よほどのことがない限りは、法人倒産などということはないと思うのですが、よほどの危機意識を持たない法人は、必ずしもそうではないでしょう。

それに加えて退職公務員会だとか、退職校長会などなど、その多さに驚いてしまいます。そうしたものは、そうしたものの多くは自分の意思に無関係に、当然の如く、毎年の会費請求書が届く事に対しては、いささかの不満でもあるのです。自分は無理矢理抵抗するタイプではありませんが、そうした会に参加する事は皆無です。他から見れば、「つきあいの悪いやつ」という見方をされているかもしれませんが、今の立場だからこそできる「自由」だと思っています。

もちろん「自由」のためには、ある程度の「抵抗」も必要なのですが。