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バドミントン

 選手が存在すれば、保護者も存在するわけですが、思考や行動がすべて同様な保護者と選手が存在するというわけではありません。まあ、すべてが同様ならば、それまたおかしなわけで、この世の中はヒットラーのような存在ばかりになってしまい、この世の存在など無くなってしまうかもしれません。

しかし、時には、自分はヒットラーの存在で、子どもたちは、すべてが兵士の如くであってほしいと思う時もあるのです。右向け右、左向け左という存在であれば、まさしく有り難いと思うわけです。スポーツ現場は、いわば戦場で、選手たちを少しでもそうした状況に近づけたいと思うわけです。それが指導には都合がいいのではないかと考えてしまうのです。

私たちが教育現場に就いたのは、かれこれ50年程前のことでしょうか。大きな声以外の物も飛ぶようなこともあった頃ですし、子どもたち自身も指導者たちの強い指導を十分に理解していた時代です。

 話は変わりますが、昔と比べるとスポーツを学ぶ時期がだいぶ早まりました。もちろん、昔も小学生のころから野球などには馴染む者はいましたが、今のようには低学年からのクラブなどはありませんでしたし、また、これほど多数の有料のクラブなどはありませんでした。

 今や、日本の子ども数の激減は甚だしい状況です。偏見や僻目ではありませんが、バドミントンに関わる者としては、加入者数の低下についての不安も否めません。

しかし、バドミントンは公園の羽根打ちという、昔からのイメージの悪さについては、オリンピックやワールドカップでの良い結果もあり、徐々に払拭されるであろうと、期待をこめての指導を続けたいと思います。